沼 397: 花火と飛行機
こんばんは、「ラジオ 沼」かえるさんです。
きのうはですね、アーティスト集団のChim↑Pomが広島で行った、プレイベントといいますかね、「ピカッ」っていう、カタカナを空に絵が描いたことをめぐっていろいろ話をしたわけです。
実はそのあと、その数日後に一見すごくよく似た催しが行われましたね。それは蔡國強というアーティストが、原爆ドームのうしろに、黒い花火を打上げた。という、まあ、作品ですね。で、これには橋の上から何人もの市民が見に行って、拍手も起こったっていうような話を聞きました。youtubeでもそういう映像が上がっていましたね。
まあ、この二つは一見するとすごく似てるんですよね.両方とも広島の空、というものを問題にしている。そこに何らかの、空にないものをつくりあげる、という点ではたしかにすごく似てるわけですわけです。そしてどちらもある意味で煙なわけです。だからWebには実際、なんでこの国際アーティストだからか知らんけど蔡さんのアートは評価されて、Chim↑Pomのやったことはなんであんなに避難されなあかんのと。変われへんやん、という意見が、まあ、ちらほら見える。
僕はね、結論からいいますと、全然違うなあと思ったんですね。僕は両方とも新聞あるいはyoutubeでしか知りませんから、生で見たわけではないんですけども、だから、ほんとにそこにいたらどういう感じがしたかなっていうのは残念ながら憶測でしか言えないんですけども、それでも伝わってくることだけを考えても、全然ちゃうやないですか、ちゃうじゃないですかっていうことを今日は言おうと思うんですけどね。
何が違うかっていうと、あの、まず端的に花火ってどういうもんやっていう話なんですね。花火は飛行機のスモークとぜんぜんちがうんですよ、何が違うかっていうと、音がするんですね、圧倒的な音がしますね。何千発の花火が使われたという話ですから、ものっすっごい人の耳をつんざくような音がしたはずです。圧倒的な音がしたはずですよね。これは飛行機雲なんかと全然ちがう、つまり、もしかしたら気がつかないくらい、あ、また飛行機が飛んでるなぐらいのぶーんって音が鳴るのと、それから、空を見てない人さえも振り向かさせるような、何事が起こったんか、と空を見上げさせるような、圧倒的な音を鳴らすのでは、全然やってる事が違いますね。
そして、その音が鳴り始めてから鳴り止むまで、いわば人を思わずひきつけてしまう、ひきつけるというよりは強制的に振り向かさせるような力を持った時間で、しかもそれは、2分足らずで終わってしまう。この時間の短さも圧倒的に違いますね。昨日も言いましたけども、午前中数回にわたって何度も描かれた、いつからいつまでとは分かりません、そういう、始まりも終わりもよく分からない、というやりかたと、それから、ここから始まってここで終わり、というやり方は全然違うね。
もちろん蔡さんのイベントっていうのは予告されてたわけだから、実際それを待ち構えていた人たちがいっぱいいて、で、さあ始まると思ってね。もちろんその中には非常に反感を持ってる人もいたでしょうね、なにをしやがるんやごらゆうぐらいの気分で見てた人もいると思う、その人たちが納得したかどうか僕は分かりませんけども、しかし少なくとも、そういう人たちですら、今から何が始まるんだろうというのもあって、そうすると大音響が鳴り響いて、そして黒い花火があがる。そしてそれが、ある時間にぱっとおわる。あとに煙だけがのこる。それも消えていく。そういう時間ですね。そういう時間が、非常に考え抜かれて構成されてたと思うんですよね。まあ似たようなことを言ってますけども、それはそうなんだろうな、というのはyoutubeを見てて、僕は思いました。あれは現場にいたらもっと、こうなんかいろいろ考えたのかなって思いますね。見るアングルによっても違ったでしょうね。原爆ドームの背景に上がる、っていうアングルで見た人には、なんか、何とも言えない思いがあったでしょうし、別のアングルから見た人も、なんかムメイの空にこういうのが挙がるってどういうことやろう、ってすごい考えたと思う。
あと花火っていうのが、すごく飛行機雲と違うのは、花火って、花火の上がってる場所に人がいないんですね。花火っていうのは地上から打上げられて、その打上げてる主体である花火師すらもいったんそれが打上げられてしまうと、どんな風になるかっていうのは手がとどかない、もちろん入念に仕込む訳ですけども、入念にしこんだとしても、いっぺんもう打上げられてしまうと、それが爆発する場所に人がいることができない。もう手が届かない場所なんだ。ですから、その打上げる花火師自身も、アーティスト自身も地上にいて、見てる人も地上にいて、花火だけが空を、占めている。こういう自体が花火ではおこるわけですね。花火が、短い時間ですけども、いわばこの世の中をセンセイするわけですね、占有するわけです。
それに対して飛行機で字を描くって言うときは、飛行機に乗ってる人がいるわけですよ。あえていえば、あたかもB-29が、空を飛ぶようにね。人がそこにいるわけですよね。しかもその人からは、基本的には自分がやってることが見えない。もちろんもしかしたら、最近のテクノロジーのこともあるから、飛行機にモニターを積んで、そんで自分が今やってることを見ながら多少は飛べるでしょうけども、それでも、飛行機に乗ってる人は少なくとも地上にいる人のような感覚を味わう事は出来ないね。だから地上にいたらどんな感じがするんだろう、ていうところから切り離された場所で、自分の職務を全うするしかないんですよね。「ピカッ」って文字を書いてください、こんなアングルで、これくらいの大きさで書いてください、って言われたら、そこで、描くしかないわけですよね。地上で今自分が乗ってる飛行機が吐き出してるスモークをみたらどんな感じがするんだろう、ってところから切り離されて、坦々と職務をこなすわけですよね。そういう時間なわけです。で地上から見てる人にとってもそういう時間なわけですよね。自分から切り離された、一人この地上から離れた主体が、今時を書いているっていう、そういうのを見る訳ですよね.だから、誰でもない字がそれをセンセイしているというよりは、その字を書いてるあのひとは何故あそこにいるんだろう、というのを強烈に感じさせると思うんです.あれはいったい誰のために、あのパイロットは、あの飛行機に乗ってるひとは何のためにあれををやってるんだろう、ということをどうしても考えさせるね、そういうやりかただと思うんですよ.
いま僕が言ってることはまさに、なんというのかな、「空爆」という出来事を地上から見た人が必ず思うことだと思うんです。彼は、何故この地上にいないで、あそこで、しかも、自分が何をやってるかっていうことから切り離されて、自分がやってることが地上になにをもたらすのかっていうことから切り離されて、何故あそこにいるんだろう、ていうことを、まあそんなん考える暇も最初はないと思うんですけどね、少なくとも、飛行機を見るときに、しかもその飛行機が地上になにかをもたらそうとしてるときに、僕らは考えると思うんですね。考えてしまう。
まあ、そういうことも考えていくとね、どうなんでしょう、その、「ピカッ」っていう字を、飛行機で書く、っていうのがね、僕なんかこう、ぜんぜん焦点を結ばないんですね。もしかしたらChim↑Pomの人たちにはそれなりの意図があったんかもしれんが、なんかこうね…わからへんねんな。たとえばですよ、彼らが自分で飛行機の免許とって、自分で自ら時を書くっていうんならまだ、そこまでして、とかねいろいろ考えさせると思うんだけど、うーん、自分たちは地上にいて、パイロットの人にっていうか飛行機会社の人に頼んで書いてもらって…「ピカッ」かあ。って思うんですよね。なんかぜんぜん、こう、やってることが焦点を結ばないんですよね…。
で、まあ、いろいろ考えて、やっぱりね、うーん、彼らには酷な言い方ですけども、さまざまな面ですざんだったんだろうなって思うんです。僕、結局ね、こういうアートと俗に呼ばれるものが成立するかどうかっていうのは、表面的な形式が問題なんじゃなくって、それを実現するときのディテールだったり、それを実現するための準備だったりっていうとこがほとんどだとおもうんですよね。で、それは形にあらわれるとおもうんです。つまり、黒い花火を上げようと思う、これは誰でもある意味思いつくと思うんですよね。誰でもというかちょっとしたアイデアで確かに思いつくことだと思うんです。でもそれをいざ実現するとしたときに、そこにはいろんな困難がもちろん待ち構えているわけですね。それを、一個一個解決していく過程で、やっぱりアーティストは、これをどこに上げるべきなのか、それはどんな時間となるのか、そこではどういう事が起こるのか、もちろん最後間で予測はできませんけど、少なくともそれを見届けてもらうためには、何が必要なのか。ということをそのプロセスで考えると思うんですね。それが形になってゆくっていうのがひとつアートの重要なポイントやと思う。
僕らが、僕らがというか、思想的に、そのアートの内容に賛成のひとも反対のひとも、それを、反対やけど認めよかなと思ったり、見届けようかなって思ったときに、そこではなにが起こってるかっていうとね、たぶん、そのアートとして行われたもの、あるいは作られたものっていうのはこの世の人に捧げられてないんですよね。もしこの世の特定の人に向けてそれが行われたものだったとしたら、「おれは反対」「おれは賛成」っていうレベルの話になるんですよ、どうしてもね。おれ捧げられたから支持とかね、おれ捧げられてへんから支持しない、とかそういう話になると思うんですよね。
結局、いろんな人に見届けてほしい、見届けてもらうためにこうしようこうしよう、といういいろんなプロセスを踏むうちに、その後何にあっていうかっていうと、結局この世の人ではない、この世ではない人に捧げるものに、なっていくと思うんです。あの世の人、別に死んだ人とは限らないけども、未だこの世に産まれてきてない人でもいいですけども、とにかく、なんていうかな、あなたに捧げます、ではなくて、ここにいないひとに捧げますっていう、そういう形をアートはたぶんとるとおもうんですね、つまるところ。で、そういうかたちをとったものだけが、だけがっていったら言い過ぎかな、今、なんか勢いで言ってますけども、そういう形をとったものが、見るものに、ああ、私もこの世にいない人に捧げようと、この、この世にいない人にささげられてるこれを見届けようって気になるとおもうんです。それはなぜかっていうと、その、アートの持っている形式というか、そのアートの持っている態度かな。態度が、まさにこの世にいない、この世ではないものに向けられてるからなんですよね。この世ではないものにむけられているものを見ると、僕らはこの世ではない場所に、まなざしを、まなざそうとするんだと思うんですね。つまり、その作品に込められてる態度に、沿おうと思うんじゃないでしょうか。それが見届けるということだと思うんですよね。
そいじゃまた。
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